東京の地下鉄網の発達は目覚ましく、
今や、どの線がどのような経路で走っているのか分からなくなってきた。 更に乗り換えで思いのほか歩かされたり、 地上に出るまで場所の見当がつかず、 まごつかれた方も多いのではないだろうか。 ほかならぬ私も何度か慌てた経験がある。 数ある地下鉄経路、路線あるなかで 私には通学、通勤で使っていた日比谷線が親しみぶかいものがある。 1961年に開通した日比谷線、 中目黒から北千住までの各駅名を見るだけで 昔の江戸・東京の情景が浮かび上がってくる。 中でも、築地から北千住に向かう四つの駅は、 まさに江戸の下町、武士、商人、町人等 江戸庶民の生き生きとした市井の表情が浮かび上がってくる。 その四つの駅とは、「八丁堀」「茅場町」「人形町」「小伝馬町」なのだが、 今日はふと思い立って「人形町」をぶらぶらすることとした。 江戸の町の造成は徳川家康の江戸下向(天正18、1590年)に端を発する。 当時、江戸城の在る台地の東側にあった広大な干潟の埋め立てを 江戸の発展のための一大事業とした。 江戸城の在る台地の下の町、 これが下町の所以となったのである。 埋め立ては30年以上もの大工事となり 今の浅草から日本橋北部、浜町から新橋までの埋め立てが進み、 その過程で人形町が歴史上初めて登場してきたのである。 江戸の町づくりは数ある大名屋敷の出現をはじめ 日本橋を中心とした一大商業地域を生み出し、 急激な人口の増加をもたらせていった。 このなかで人形町地域は主に繊維街として発展し、 朝は魚河岸(浜町)・昼はお芝居・夜は遊郭(吉原)で繁栄、 「朝昼晩三千両の落ち処」と言われていた。 (江戸時代の日本橋から浜町河岸を望む) 但し、その頃は「人形町」の町名はなく、 元禄絵図を見ると堺町と和泉町の間の通りを「人形丁」と記されている。 現在の町名は関東大震災以降、 昭和8年に区画整理したときに付けられたものである。 次に、人形町・吉原の説明に移ろう。 吉原とは有名な遊郭として知られているが、 その所在地は一般的には浅草の浅草寺裏、 日本堤にあったものが有名である。 しかしながら、日本堤は新吉原であり、 それ以前に人形町に吉原が作られ、 これを元吉原として区別している。 幕府は慶長十七年(1612)、 葦(よし)の生い茂った人形町近辺の沼地(1.5万坪)を埋め立て、 町中に点在していた娼家を、この地に集め公認の遊郭とした。 当初の名前は「葦原」だったのだが、 のちにおめでたい「吉兆」の文字と入れ替えて「吉原」とした。 (当時の人形町・吉原の大門) この一大遊郭は完成後40年、 明暦の大火、いわゆる「振り袖火事」で全焼したために、 浅草寺裏に移築したというわけなのだ。 今では僅かに「大門通り」の名前に 往時の面影を偲ばれるだけである。 当時の人形町はお芝居の町、 「市村座」「中村座」等の歌舞伎芝居小屋をはじめ、 人形浄瑠璃、曲芸、手妻といった見世物小屋が立ち並んでいた。 なかでも庶民が気楽に楽しめる 「人形芝居」が盛んであったことが 「人形町」という名前の由来となった。 すなわち、この町には、人形を作る人、修復する人ばかりでなく 人形の操り師の多くが暮らしていたのである。 又、人形芝居だけでなく人形に縁のある季節商品、 例えばお正月の羽子板、雛人形、武者人形の市場としても栄えていた。 つい最近まで現代の人形作りの名人、 辻村寿三郎の人形館があったのも何らかの因縁であるかのようだ。 お芝居に関しては浜町の明治座が健在であり、 その近くには「芝居の町」の歴史を記念して 「勧進帳」の弁慶像が力強い見栄を切っている。 さて、今の人形町、どこをどうして歩こうか? (現在、水天宮は修復中) 以下次号。
by shige_keura
| 2016-01-30 10:46
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