ここは熊本市南区野田にある大慈禅寺、
曹洞宗の流れを汲む堂々たる寺である。 ここに日本柔道史上最強と言われている木村政彦が眠っている。 墓石には「鬼の柔道」と彫り込まれ、 横に建立されている石碑には 「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と書かれている。 木村は1917年にこの地で生まれ、 家は貧しく、近くの激流「加勢川」でザルを使って 砂利取りをして家計を手伝っていた。 この労働が木村の類まれなる強靭な足腰を作り上げていった。 その後、同郷の鎮西中学の先輩で 拓殖大学で柔道指南をしていた牛島辰熊の下で 1日10時間というハードな練習をこなし その名前を知られていくようになった。 1メートル80センチ、85キロの体格は 柔道家としては格別優れたものではないが、 彼の荒々しいスタイルは「鬼の木村」と恐れられていった。 木村がどれほど強かったのか、 ライバルたちの意見も取り入れながら紹介しよう。 木村は1937年に全日本のチャンピオンになってから13年間その座を譲らず、 その間行われた皇紀2600年記念展覧試合でも 5試合すべて1本勝ちで優勝した。 (木村政彦無敵のころ、21歳) 立ち技寝技ともに優れ、 立ち技の得意は大外狩り、失神者続出で技を出すことを禁じられた。 寝技はどの体勢からも入れる腕ひしぎが強烈で 多くの脱臼者が出たため、これも禁じ手となった。 その中で木村は勝ち続け柔道を離れる15年間不敗を貫いた。 のちにプロレスに転じて活躍した120キロの巨漢・遠藤幸吉の弁 「強さが別格!巨大な岩みたいに動かないのだから技の掛けようがない」。 牛と格闘し空手でも有名な大山倍達はこう語る。 「全盛期の木村だったら、へーシング、ルスカは3分と持たない」。 世界的な柔術家・エリオ・グレーシー曰く 「私がただ唯一敗れた偉大なる相手だ」。 (グレーシーを絞め上げる木村) 1964年の東京オリンピック、 日本柔道の前に大きく立ちはだかったのがオランダのへーシング。 そのとき、木村はすでに47歳を迎えようとしていたが、 関係者の間では彼以外にへーシングに勝てる見込みがないとして 真面目に出場が検討されたという。 史上最強の木村であるだけに、 今でも大きな謎とされているのが 力道山の前になすすべもなく敗れたことである。 (巌流島の戦いの調印式) 時は1954年、場所は東京蔵前国技館で 世に伝えられる、「昭和の巌流島」として木村と力道山が戦った。 この試合は10分過ぎまで淡々と進むが、 突如激高した力道山が殴る蹴るの攻撃に出て、 まともに顔面に蹴りを受けた木村が 大量の血を流して失神するという凄惨な結果となった。 大きな謎として今でも語り継がれる戦い。 自分自身もテレビで観ていたのだが、 わけの分からない後味の悪い試合だったことを今でも覚えている。 この「巌流島の戦い」を取り込んで長編ノンフィクションとして 2011年新潮社より出版されたのが 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」である。 著者、増田俊也さんの綿密な取材もあって 大長編ながら素晴らしく読み応えのある作品だった。 試合後、木村政彦は本気で力道山への復讐を考えていたようだが、 試合の9年後、力道山は赤坂の酒席で ヤクザトとの喧嘩がもとであっさりとこの世を去ってしまう。 1993年木村政彦が死ぬ直前、 猪瀬直樹がインタビューを行ったが、 このときの木村が言った言葉がこれだ。 「力道山を殺したのはヤクザではなく私だ。私が念じ殺したのだ」。 木村政彦は「巌流島の戦い」の結果があくまでも 力道山の掟破りに端を発したことであることに 積年の恨みとして持ち続けていたのだ。 碑の横を見て驚いたのは、 木村政彦の奥様は昨年までご存命でおられたことである。 (在りし日の木村政彦一家) できることなら、旦那様の生前のお話をお聞きしたかったものである。 1954年の昭和の「巌流島の戦い」、 街頭テレビに群がる大勢の人々、 まさに天下分け目の決戦であることを今に伝えている。 あのとき、私はどちらを応援していたのだろう? ただ、全く無抵抗の木村政彦を茫然と 信じられぬ想いで観ていたと思う。
by shige_keura
| 2016-04-13 09:35
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