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熊本~天草の旅 -四郎の呪縛―
天草と言えば誰しもが思い浮かべるのが天草四郎、
若くしてキリシタンを率い
幕府に反旗を翻した「島原の乱」で討ち死にした悲運のヒーローである。

天草に足を踏み入れたと同時に目立つのが天草四郎関係の宣伝、PR。
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「天草キリシタン記念館」、「天草四郎メモリアルホール」、
「天草パールセンター」、「藍のあまくさ村」、「鬼池港」等々、
至る所に彼の像が建立されている。
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天草の観光は天草四郎一色、
すべては彼に委ねられているようだ。
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それでは、この作戦が功を奏しているかというと首を傾げざるを得ない。

まず第一に天草四郎の実態が歴史のなかで、
解明されていないことが多すぎるのである。

江戸初期のキリシタン信奉者
実は豊臣秀頼の落胤をはじめ、
出生地についても天草諸島、熊本の宇土、或いは長崎と諸説ある。

               (幕府側の拠点となった富岡城跡)
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1621年或いは1623年に生まれ、
1637年の島原の乱のときに
十字架を掲げてキリシタンの総大将を務め原城で討ち死にしたというのだが・・・・。

十代の前半にして軍を率いることが現実的でないとの疑問もあるし、
そもそもこの戦いがキリシタンと幕府の争いではないとの説が今や一般的なのだ。

「島原の乱」は領主の圧政に立ち上がった単なる農民一揆であり、
そこに攻める方も守る方もキリシタンを担ぎ出したという背景がある。

一揆側としては奇跡を起こしたキリシタン信者を大将に掲げることで
聖なる戦いとの色彩から、より大きな力が湧いてくる。

一方の徳川幕府は家光の時代、
まだまだ徳川は盤石とは言えなかった。

従って、どこかで幕府の強大な力を見せつける必要があった。

そこでキリシタン嫌いの家光が考え出したのが
キリシタン弾圧に名を借りた一揆側と豊臣残党の殲滅作戦だった。

確かに一揆側には豊臣の流れを汲む者も居たという説がある。

従って、天草四郎の名前を売れば売るほど
話が嘘っぽく思われてくる。

しかも天草四郎には悲劇の影、暗いイメージが付きまとっている。

               (大江天主堂)
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それは天草の持つ風光明媚な自然と
余りにも大きなギャップを感じさせてしまう。

               (大江天主堂にあるルルドの聖母)
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天草四郎を売れば売るほど不自然さは強調され
天草の全体イメージを暗くしているようにも思われた。

               (埼津教会)
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「脱天草四郎」こそ今の天草が真剣に考えなければいけないのではないだろうか。

               (富岡城跡より天草諸島を見下ろす)
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天草諸島が持つたおやかな自然、
豊かな海の幸、山の幸をもっともっとアピールするべきである。
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by shige_keura | 2016-11-28 09:54 |
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