Top
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -2-
-米子と言えば・・・-
c0135543_18291944.jpg

天守閣が国宝指定となっている松江城、
別名千鳥城を駆け足でめぐり
初日の宿泊地である米子に到着する。
c0135543_183099.jpg

地方活性化の声がむなしく聞こえるほど
米子の街はさびれていた。
c0135543_1831322.jpg

旧市街の河童橋周辺も荒廃、
かつては漁師たちで賑わった飲み屋街も閑散としている。
c0135543_18314468.jpg

お勧めの居酒屋「稲田屋」、
猛者海老、ひと干しの烏賊をはじめ
当地の味に満足したがお客は入ってこない。
c0135543_18322584.jpg

c0135543_18325973.jpg

昔日の米子は戻ってこないのか?




私にとって、米子と言えば反射的に思い出すのが
高校野球の米子東高校であり、
痩身ながらチームを準決勝まで導いた
美男の長島康夫投手である。
c0135543_18335347.jpg

タクシーの運転手さんに聞いてみた。

「その昔、甲子園を沸かせた
 米子東の長島投手ご存じですか?」

「お客さん長島さんのこと知ってるの!
 私にとっちゃ、知ってるも何も、長島さんは郷土の誇りよ、
 だけど今じゃ米子東も弱くなっちゃって甲子園どころじゃないね」。

街が衰退してくると高校野球の力も衰えてくるのだろうか。

長島さんが甲子園で話題となったのは
1956年の夏の大会、彼が19歳の時の事だった。

この文章で、おかしい?と思う人は高校野球通である。

何故ならば高野連の規則では
18歳を超えると年齢超過で大会には出られなくなるのだ。

19歳で甲子園に出場、
その裏には長島さんが辿った苦難の道がある。

長島さんは小学校3年の時に北朝鮮で終戦を迎えた。

戦地に行った父は消息不明で結局帰ってはこなかった。

母と妹との三人生活は貧困を極め、
妹は栄養失調の為この世を去った。

日本に帰国した時は戦後の混乱で
長島さんの小学校再入学が1年遅れた。

新聞配達をして家計を助けた長島さん、
恩師の計らいで諦めていた高校進学が叶った。

母親お手製の布製のグローブで野球に親しんだ長島さん、
高校3年を迎えたときは19歳となっていたのだ。

従って、甲子園には出たくとも資格がなかったのだ。

それが米子東高校野球部必死の嘆願が聞き届けられ、
大会直前の6月に特別出場許可が出た。

2回戦から登場した米子東は初戦の対別府鶴見丘高校を1-0で破る。

長嶋さんはエースとして完封、
2安打12三振の文句もつけようもない完璧な投球内容だった。

準々決勝は強豪・中京商業に対し3-0とまたも完封勝利、
長島さんの名前は米子東の紅顔の美少年として全国に轟いた。

準決勝は岐阜商業、好投手、清沢さんとの息詰まる投手戦、
惜しくも1-2で甲子園から去ることとなった。

当時の野球解説者から長島投手のシュートは
高校生では打てませんと評価された。

このシュートは当時関学のエースであり
後に阪神を背負った村山実さんからの直伝だったのだ。

偶々、当時の米子東の監督が村山さんと知り合いであった縁で
練習を見に来てくれた時に教えてもらったと言う。

1956年以来、鳥取勢が甲子園で2回勝ったことは無い。

この時が米子東にとって、
長島さんにとっても一瞬であるが光り輝いた時だったのだ。

高校卒業後、長島さんは巨人をはじめ
多くのプロ球団からの誘いを断り
当時の富士製鉄に入り社会人として活躍していった。
c0135543_18344190.jpg

今は、横浜でお暮らしで、
自ら「19歳の甲子園」を出版された長島さん、
一度是非ともお会いしたいと願っている。
[PR]
by shige_keura | 2017-04-03 18:36 |
<< 出雲~松江~米子~広島~丸亀~... 出雲~松江~米子~広島~丸亀~... >>



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
→過去のブログを見る


ホームページ 



LINK 

カテゴリ
全体



スポーツ
その他
LINK
トリップアドバイザーにお勧めブログとして認定されました。金沢 ホテル
旅行口コミ情報
以前の記事
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
more...
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

LINK FREE

このブログの写真・テキストの無断使用はお断りします。

(c) 2007 shige_keura. All rights reserved.