永代橋から左右の景色に見とれる。
近くで見る隅田川は誠に堂々としている。 一方左手はと見ると よくもこれだけ変貌したものだ。 隅田川の中洲に これだけの高層ビルが建ちならぶとは、 内蔵助は無論お釈迦様でも 及びもつかぬことであったろう。 高層ビル群の右手、 ひときわ立派な建物が聖路加国際病院。 (彼方に見える橋の支柱の右が聖路加病院) この建物を目当てに進むのが 最も分りやすい。 永代橋を渡って、ほどなく 鉄砲洲通りにさしかかる。 築地一帯は江戸時代から”鉄砲洲”の名前で呼ばれていた。 では、何故、”鉄砲洲”と呼ばれたかだが、 これには三つの説がある。 1.ここは江戸時代初期に埋め立てた土地で 堀岸と海に挟まれた埋立地の形状が 鉄砲伝来の”種子島”の形に似ていたからだという。 2.この土地の形状が、”種子島”というよりか 鉄砲そのものの形に似ていたからだ。 3.当時、この土地で商売をしていた 大砲、鉄砲の幕府御用商人、 井上、稲富両氏がこの場所で試し撃ちをしたからである。 いずれの説も、”なるほどね”と思わせる。 又、鉄砲洲から芝浦にかけての海を江戸湊と呼び、 江戸有数の漁場で新鮮な キス、ハゼ、カレイ、カマスが大量に揚がった所だ。 (江戸時代の船着場の名残が・・・) いうなれば、本家、”江戸前”という事になるだろう。 聖路加病院にてトイレットタイム兼しばしの休息。 ここならば、急に体調に異変が生じても 医者には事欠かない。 さて、今は聖路加病院が幅を利かせている一帯だが 歴史的に見逃せぬ場所が多い。 そのなかで、”討ち入り”と切っても切れないものがある。 それは鉄砲洲、今は聖路加の敷地内に 浅野家上屋敷があったのだ。 赤穂の浪士たちが本懐を遂げ泉岳寺に向かう時 かつての主君上屋敷のそばを通る道を選んだ事は 容易に想像できる。 又、上屋敷そばを通りかかった時、 浪士たちの胸の高ぶりはいかなるものであったろうか。 尚、この近辺は、 慶応義塾発祥の地、芥川龍之介生誕の地のほか 明治学院、立教女学院発祥の地でもある。 築地本願寺を左手に見ながら進めば そこは築地の魚河岸商店街。 幸か不幸か、時分時! ”腹がすいては戦は出来ぬ、 討ち入りは終わったが歩く事ができぬ”だ。 ”築地の魚河岸が近い、 さすれば魚は美味しいか?” ”いや、とんでもありません”とでもいうような 昼の寿司定食で腹をとりあえず満たし再び出発する。 昔から人気の井上ラーメン店は昼時とあって 大変な人だかり、 本当に旨けりゃ、こっちの方が良かった。 汐留再開発で侵食甚だしい青空を見上げながら 第一京浜に入る。 ここは、数日後、野口や渋井等 北京五輪を目指す有力選手たちが走る 東京国際マラソンのコースだ。 いずれにせよ、あとは一本道、 道順は間違えようもないが 金杉橋を通るあたりで若干足に疲労感を覚える。 見上げる道路標識には 品川まであと3キロ!!!!! 殿の墓前はもうすぐじゃ!!! 明日のブログは漸く泉岳寺詣となるか?
by shige_keura
| 2007-11-20 09:02
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