もう亡くなってしまったが、
好きな落語家の一人に春風亭柳昇という、 ばかばかしいことこの上もない噺家がいた。 冒頭の決まり文句がこれ。 ![]() 「私の名前は春風亭柳昇と申しまして、 大きなことを言うようですが、わが国では・・・・・・・・ 私一人でございます」。 柳昇の持ちネタに「里帰り」というのがある。 嫁に行った娘の“おはる”が義母に苛められて度々里帰りするのだが、 ある秋の日、彼女が帰ってきた。 柳昇はとぼけた口調で訥々と言う。 「なんだ、はるがまた来たか、毎年、あきになるとはるが来るな」。 柳昇の言葉に倣うと、4月20日の山中湖畔は 「お春が来たと言うのにお冬は未だ居座ってるのかね」となる。 ゴールデンウィーク前、例年通り 夏の準備の為、山中湖畔の家の点検、掃除に出かけた。 庭の富士桜のつぼみは開いているだろうか? 旭ヶ丘、三国峠の山桜は?湖畔の桜は? 出発前の期待は見事なまでに裏切られた。 ![]() 山中湖周辺は未だ冬一色、出迎えてくれたのは黄色い水仙と 枯葉に埋もれるように咲いているクリスマスローズだけだった。 ![]() 木々もよーく目を凝らして見れば 若芽の息吹が感じられるものの冬木立、 灰色の世界が広がっている。 ![]() しかも、この冬の厳しさを物語るように 木々の枝が折れ、例年に比べ景色が殺風景に感じられた。 ![]() しかし、悪いことばかりではない。 ![]() 富士山は終日に渡り見事な姿を披露してくれたし、 北岳をはじめとする北アルプスの全容が 今日ほどくっきりと見えたことはない。 ![]() 山中湖のバックに広がる北アルプス その雄大なパノラマにしばし目を奪われていた。 ![]() ![]() ■
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by shige_keura
| 2017-05-09 08:43
| 旅
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「一期一会」
![]() 夜桜お七にたぶらかされたのか、 真っ直ぐホテルに帰る気にはならず、 向かった先はその昔よく通ったジャズバー。 ![]() “Bokunen”の名前のバーは尾崎神社のすぐそば、 人っ気のない場所にいつものネオンがボーっと輝いていた。 ![]() 女性オーナーとの再会は3年ぶりぐらいなのだが、 覚えてくれていたらしく、 暫くして澄んだ音色のピアノと歯切れの良いドラムス、 アンドレ・プレヴィンとシェリー・マンによる名盤 「マイフェアレディ」が流れてきた。 ![]() 山崎のオン・ザ・ロックスでジャズを楽しむ。 演奏がジェリーマリガンに代わる頃、 一人の西欧人が店に顔を覗かせた。 ![]() アルコールの勢いもあって通訳を買って出ると 初めての日本で金沢は友人から勧められたとのこと。 本当はライブを聞きたかったのだが休みだったので この店の存在を聞いて入ってきたと言うわけだった。 隣同士で久しぶりの英語で悪戦苦闘しているうちに、 驚くべき展開となっていった。 彼はアイルランドから来たと聞いた途端に興味津々、 何故ならば私の最も尊敬する映画監督 ジョン・フォードの故郷であるからだ。 そして、ジョン・フォードの作品の中で 最も好きな映画が、 アイルランドを舞台にした「静かなる男」なのだ。 (「静かなる男」スタッフ、右端がJ・フォード 隣がV・マグラグレン、J・ウエイン、F・フォード、ジョンの兄 前に座っているのがB・フィッゼラルド) ![]() (「静かなる男」ジョン・ウエインとモーリンオハラ) ![]() 忘れもしない1984年欧州でのバカンスを過ごしたのが アイルランドの西海岸にほど近いキラーニー。 ![]() 当時の日本人にはほとんど知られてい居ないところだった。 (1984年の夏休み、アイルランド馬にまたがる娘) ![]() (ガルヴェイ湾を背景に) ![]() 何故、そのような所に行ったのかの理由はただ一つ、 キラーニーはジョン・フォードの故郷 西海岸ガルヴェイ湾にほど近くだからだった。 ここからは、アイルランドの彼との会話である。 「アイルランドのどこから来たの?」 「ガルヴェイさ、と言っても知らないだろうけどね」 「なにーー、ガルヴェイだって! ジョン・フォードの故郷じゃないか!!」 (ガルヴェイ湾と断崖) ![]() 「何だ、おまえ知ってるのか!ガルヴェイを、 いやいや、信じられないなー、どうして??」 「知ってるも、知らないも、俺は欧州で働いていて、 ある年の夏休みをキラニーで過ごしたのさ、 自然が綺麗で、地元の人たちは皆親切で いいところだったなー」 「そーか!気に入ってくれたか! ありがとう、ありがとう」 「ジョン・フォードの「静かなる男」は良かった!!」 「あれは最高だよ、ジョン・フォード素晴らしいな。 それにしても、金沢に来てよかった、 まさか故郷の話が出来るとは思わなかったよ」 一期一会。 (BOKUNENの入り口) ![]() 心地よいモダンジャズ。 ウイスキーを山崎から アイルランドのブッシュミルのストレートに代えて アイリッシュ男との楽しい会話が続いた。 これだから人生は面白い。 ■
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by shige_keura
| 2017-05-08 09:00
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「加賀の国の食文化」
加賀百万石の中心地である金沢の 食文化程度は極めて高い。 今回の訪問で加賀の味を堪能した三つのお店を紹介しよう。 先ずは、「乙女寿司」。 ![]() 金沢到着した4月12日の正午、その足で向かった場所は 片町スクランブル交差点裏に小体な店を構えている。 ここ2年ほど冬は千取鮨で夜をゆっくりと過ごし、 春或いは初夏に訪問した時は乙女鮨で握ってもらっている。 先ず驚くのは店主の記憶力の良さ、 お客さんの顔は1回見たら絶対に忘れないようである。 とにかく前回にどの席に座っていたかも 正確に把握しているのにはびっくりさせられる。 この日はお昼のお任せコースで 北陸の旬の味を満喫した。 ここの握りは千取と比べ若干柔らかめであるが すし種は店主の若さもあって 新たな試みがなされているようだ。 千取では絶対に出てこないノド黒を ひと炙りした握りは脂が程よく乗っていて絶品だった。 お任せ終了して、もう少し追加したいところをぐっと我慢する。 何故なら、夕食に腹具合を合わせておかねばならないからだ。 12日の夕食は金沢郊外、湯涌く温泉手前にある「つばき」。 ![]() ここは和菓子の名店「吉はし」のご主人の紹介で 3度目の訪問となる。 3度目と言っても今まで2回は12月、 春に訪れたのは今回が初めてだった。 ここは狩猟の免許を持っている店主の小村さんが 山や渓谷で採取した恵みを振る舞ってくれる。 (筍と山菜の煮物) ![]() 冬は熊、鹿等々の「マタギ料理」、 春はバラエティに富んだ山菜、しし鍋、 夏は鮎、そして秋はキノコと 四季折々、料理の主役が変化していく。 (川鱒の刺身) ![]() そして、必ず出るのがすべてのお客が絶賛する濃厚なる胡麻豆腐。 (山菜各種と胡麻豆腐・右上) ![]() 福光屋のぬる燗をちびちび飲りながら、 春の鮮烈な香りにワクワクしながら箸を進め、 最後は濃厚なだし汁のしし鍋をつつく。 (店内に活けてあった緑桜、花も緑色) ![]() 春とは言え、夜になるとまだ肌寒い北陸、 鍋とお酒で暖まり満ち足りた気分となった。 13日の夕食は「雅乃」、 ここも吉橋さんの紹介で今回が初訪問だった。 金沢の老舗料亭銭屋の板長として腕を磨いたご主人が 15年ほど前に独立し犀川べりにお店を出した。 ![]() 部屋はふたつ、我々一行6名に絶好のカウンター席、 個室同然の優雅な場所、 目の前でご主人が緊張感をもって 包丁を振るう様が見られるのが素晴らしい。 ![]() 酒の種類も豊富なのだが ぬる燗の酒は福光屋の「黒帯」と昨夜と同じ。 ![]() 居心地最高、料理も最高に大満足。 ![]() 良い気持ちとなって店を出る。 ![]() 横丁を曲がろうとしてふと後ろを振り向くと ご主人はまだ深々と頭を垂れている。 ![]() 吉橋さん仕込みのお役様への対応、 ほろ酔い気分に犀川の夜桜が妖艶に微笑んでいた。 ![]() ■
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by shige_keura
| 2017-05-07 17:31
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「山岳信仰の拠点」
北陸(富山・石川・福井)には 日本三名山と称される山がふたつある。 ひとつが富山県の立山連峰であり、 もうひとつが福井県と石川県にまたがる白山(標高2,702メートル)である。 三名山は同時に三霊峰とも呼ばれているように 白山も大昔から山岳信仰の山として崇め奉られてきた。 ![]() 奈良時代に入り、泰澄によって 福井県側の登拝として開山されたのが平泉寺であり、 以降、白山信仰は正式な修験道として 多くの人を集めるように発展していった。 ![]() 中世になると北陸でも有数な勢力有し 広大な境内には数十の堂や社、 数千にのぼる坊院が建ち並ぶほど巨大な宗教都市となった。 (平泉寺で見かけたかたくりの花) ![]() また、平泉寺は堅固な石垣、砦を築き 難攻不落の城塞都市として戦国大名や一向一揆と対峙した。 しかし、天正2年(1,524年)一向一揆との戦いに敗れ、 全山は火の海に包まれすべてが灰塵と帰してしまった。 ![]() 今では江戸時代に再興された本社、拝殿に 往時の栄光の一端を偲ばせている。 ![]() 平成元年から遺跡発掘が始まったのだが、 その結果、平泉寺の規模は予想を遥かに超える 巨大なものであることが徐々に明らかになってきた。 ![]() それは、日本の道百選にも選ばれている 中宮に向かう堂々としながらも神々しい佇まいを持つ参道に 巨大宗教都市の雰囲気を感じ取ることが出来る。 ![]() ここは、京都の苔寺と並ぶほどに 苔の美しさで知られているが、 訪れたときは未だ雪が残る為、 ところどころ、庭の清掃作業が思うように進まず 枯れ枝が苔の上に散乱していた。 ![]() ![]() それでも鬱蒼とした杉木立の中に静かに眠る平泉寺、 スケールの奥深さを十分に感じ取ることが出来た。 ■
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by shige_keura
| 2017-05-06 08:42
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「越前は蕎麦の里」
1997年金沢に赴任する前、 私は一度として北陸の地に踏み入れたことは無かった。 辞令を貰って慌てて地図を見て 富山・金沢・福井の位置関係を調べたものだった。 だから、福井、越前の里が蕎麦どころであることは知る由もなかった。 ![]() 「信州長野の蕎麦よりも、あたしゃあなたのそばがいい」。 私の中での日本の蕎麦どころと言えば 信越線の駅で立ち食いした信州そば、 あるいは新潟の妙高、戸隠蕎麦ぐらいだったと思う。 基本的に蕎麦の好みは圧倒的に田舎蕎麦びいき、 麻布更科が売りにしている御膳ソバなどは、 生白くて歯ごたえもなく、とてもではないが 食べるだけ損する感じを抱いていた。 金沢赴任後、富山に住んでいた同僚がある日、こう言った。 「富山も旨いものはたくさんあるんですがね、 蕎麦は福井に叶わないね。あそこのオロシ蕎麦ときたら・・・ 一度食べてごらんなさい」。 底の浅い椀に蕎麦が盛られ、そばつゆは掛かっており 上におろし大根が盛られた、言ってみれば無骨極まりの無い福井の蕎麦。 一口食べて正直驚いた。 そばの香りと芯がまだ残ってるかのような麺、 ところがのど越しはすこぶる滑らか、 今では越前蕎麦に優る蕎麦は日本にないと私は断言する。 一乗谷見学のあとの昼食、 当然、お目当てはオロシ蕎麦なのだが、 名店「ふる里」は遠いし、 行ってみても今日の水曜日はやすみだからどうしようもない。 ![]() そこで訪れたのが、 まずは観光客が立ち寄らない穴場中の穴場、「宿布屋」、 ここは老夫婦二人だけで切り盛りしているお店で 出すものはおろし蕎麦ただひとつ。 ![]() それだけこの一品にこだわりを持っているのだ。 ![]() ちょいとピリッとくるおろし大根が絶妙のアクセント、 太めの蕎麦と共にあっという間に我が胃袋に収まった。 ![]() 「旨い!」、これが本当の蕎麦だぜ!! 勿論、トロッとした蕎麦湯が優しく腹に沁みわたる。 帰り際奥で働いていたご主人が出てきた。 「二十年ほど前に一度立ち寄らせてもらいました。 今回、東京から越前を見てまわってます」。 「それはそれは、遠いところをありがとう存じます。 どうぞ楽しい旅をお続けください」。 旅の途中、地元の人たちとのこういった会話は堪らない。 ■
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by shige_keura
| 2017-05-05 08:35
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「秘剣誕生の地」
![]() 朝倉氏によって繁栄した一乗谷の遺跡から ほど近いところに一筋の清冽極まる滝がある。 ![]() その滝の近くに刀を構えた一人の武士の銅像がある。 その人の名前は誰もが知っている佐々木小次郎である。 ![]() 佐々木小次郎は謎の多い人物で 真相は解明されていないものの、 宮本武蔵との巌流島の戦い(1602年或いは1612年)は 日本史の中の最高の剣豪の果し合いとして 多くの小説、映画に取り上げられている。 このとき武蔵は戦いに備え、 刀ではなく船の櫂(かい)を使用したと伝わっている。 (「船島」(巌流島に立つ二人の剣士の像) ![]() その訳は相手の佐々木小次郎の持つ、 通称「物干しざお」と呼ばれた3尺余の大刀を操る 秘剣「ツバメ返し」に対抗するためのものだった。 秘剣「ツバメ返し」の誕生の地が、 ここ一乗滝であったと言う伝承が今に伝えられている。 小次郎は若かりし頃、この地で「ツバメ返し」を会得したのだが 武蔵との巌流島の戦いは、これより数十年あとのことと伝えられている。 その時武蔵は20歳ごろの若人、 小次郎は60を超えまさに老境の剣術師だった。 では、何故、若かりし頃の小次郎は この一乗滝で剣術に打ち込み「ツバメ返し」を自らのものとしたのだろうか? (尾上菊之助演じる映画・佐々木小次郎) ![]() 佐々木小次郎は安土桃山から江戸時代にかけての剣客で 号を岩流或いは厳流を名乗った。 出身地には二説、豊前国(福岡)と越前国(福井)あるが 武者修行をしていた時代に 一乗谷、朝倉氏のお抱え剣術師である富田勢源に師事していたことがあった。 勢源は特に小太刀の扱いに優れ、 小次郎は何度挑戦しても勝つことが出来なかった。 小次郎は師匠と同じ長さの刀では勝てないことを悟ったのだが、 大刀をもってしても必勝の技を掴むことは至難の業、 悩みに悩みぬいていた。 そんなある日、小次郎は一乗滝を前にして考えに耽っていた時、 一羽のツバメが風を切るように目の前を横切り空に舞い上がった。 そのとき、小次郎の脳裏に閃いたのが、 飛んでるツバメを切ることが出来れば 師匠の富田勢源にも勝てることが出来るということだった。 こうして生まれたのが秘剣「ツバメ返し」なのである。 その奥義は次のようなものである。 相手に対して上段に構え、大刀を振り下ろす動作を起こし、 相手が思わず怯むところを、刀をすかさず下段におろし 瞬時に上に切り上げる必殺技である。 ![]() これが世に有名な「ツバメ返し」、 吾等世代がおなじみの「チャンバラごっこ」でお馴染みの技である。 ![]() 目の前に見る、一乗谷川の清冽な滝、 周囲の緑の中を舞うツバメを想像すると この地で小次郎がツバメに立ち向かった姿が実感出きるのが面白い。 ![]() ■
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by shige_keura
| 2017-05-04 08:31
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「越前の山間・西の京」
福井市から東南30キロほど、 九頭竜川水系足羽川(あすわ川)の支流一乗谷川下流沿いに 一乗谷と呼ばれる谷合いがある。 ![]() 東西500メートル、南北3キロに及ぶひっそりとした谷合いに その昔、西の京と謳われるほどの文化が発展していた。 ![]() この地が歴史に現れるのは南北朝時代に遡る。 この時代から支配していたのが朝倉氏、 この谷合いは東西南は山に囲まれ、 北には足羽川が流れるまさに天然の要害だった。 ![]() この地をめざし多くの人が集まったのが応仁の乱、 荒廃した京都から天然の要害に多くの人たちが逃れてきた。 その中には多くの公家、高僧、文人、学者が含まれ、 この地で華やかな京文化が開花する芽となった。 ![]() 戦国の世、朝倉孝景の頃にこの地は全盛期を迎え、 1万人を超える人々が暮らすまでとなっていった。 暗転したのは1568年、 将軍足利義秋が一時身を寄せた朝倉氏を見限って 美濃の織田氏を頼ったことである。 1573年朝倉氏は織田を迎え撃つも敗れ大野に背走、 織田信長は一乗の里を焼打ちにした。 ![]() その後は一向一揆等の舞台となったが 越前八郡を賜った柴田勝家は 本拠を北の庄に移したことで一乗谷は歴史の舞台から消え去った。 400年近くも忘れ去られていた越のお里が 陽の目を見たのは1967年に始まった発掘調査。 ![]() 以来、この里が予想を遥かに上まわる規模を持った 都であったことが徐々に明らかとなってきた。 私が最初にこの地を訪ねたのは1990年後半、 その頃は未だ福井の奥田舎、ひなびた風情の中 にかつての北の京の片鱗は正直言って肌で感じなかった。 ところが、今回の訪問では 遺跡発掘が驚異的に進んだこともあって 北の京の雅な面影が実感となって感じられた。 ![]() 同時に遺跡発掘が如何にロマンを掻き立てるものかが良く理解できた。 ![]() インディアナ・ジョーンズではないが 考古学にのめりこむ人の心境が大いに理解できた一乗谷訪問だった。 ■
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by shige_keura
| 2017-05-03 10:51
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「桜に染まる古都」
![]() 1997年から6年間暮らした古都、金沢は 3月下旬から4月にかけて町がピンク色に染まる。 ![]() 日本を代表する名庭園の兼六園をはじめ、 武家屋敷、犀川、浅野川、卯辰山どこも桜、桜、桜。 ![]() 百万石の町、金沢にとって最も相応しい季節到来を 毎年待ちわびていた。 ![]() その後、東京に戻ってからも 年に一度は金沢を訪れてはいるが、 残念ながら、あの爛漫の桜を鑑賞することは出来なかった。 ところが、今年は春先の天候不順が味方し 桜満開があたかも、4月12日から3日間の 金沢訪問を待ってくれていたかのようだった。 ![]() 冬の雪吊りが全国的に有名な兼六園も この季節の主役は桜、 緑青々とした名木、根上がりの松も 今日ばかりは脇役の座に甘んじるほかはない。 ![]() 兼六園の染井吉野を満喫した後は金沢城へ、 そこには白い大きな花弁を付けた太白桜、 ピンクの滝のような枝垂桜が咲き誇っていた。 ![]() ![]() ![]() 遠くに見えるのは昔の我が家があった卯辰山、 山桜がぼーっと霞んでいる。 ![]() 今は行われなくなった浅野川園遊会は季節の風物詩だった。 ![]() 浅野川に舞台、川床を架設し、 三味線、太鼓の音に合わせ東、西、 そして主計町の姐さんが艶っぽく踊る。 ![]() 川面をなでる春の風に桜の花びらが舞い散る、 これこそ百万石の金沢ならではの光景だった。 ![]() 金沢値千金の時を久しぶりに満喫した。 ■
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by shige_keura
| 2017-05-02 16:27
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宿命のライバル、
長々と続いた旅行記もいよいよ最後となる。 高松を訪れた私は金毘羅様、金丸座、讃岐うどん、等々 名所、名物はさておいて、 どうしても見学したいものがあった。 ![]() それが中央公園に建つ二人の銅像、 水原茂、三原脩、共に郷土が生んだ 日本野球史に残る名選手にして名監督である。 スポーツの世界にライバル関係は良く取り沙汰されるが 水原・三原以上の宿命的ライバルは何処を探しても見つからない。 水原茂さんは1909年1月19日生まれ、 話と何ら関係ないが偶々私と同じ誕生日なのだ。 ![]() 彼は銅像から東に1.5キロにある 高松商業を経て慶應義塾大学に進んだ。 彼は幼少時に両親が離婚し 父が入り婿となったので水原姓を名乗ることとなった。 のちに水原さんはこう語っている。 「野球に熱中したのは寂しさ忘れようとしたからなのかな」。 ![]() 日本プロ野球の歴史上最高の洒落者、 ダンディ水原に憂愁の影が常に付きまとっているのは 幼少時の体験が影響しているものに違いない。 三原脩さんは1911年の生まれ、 銅像から西にわずか200メートルの所に或る 高松高校から六大学のこれまた名門の早稲田大学に進んだ。 ![]() 三原の生家は大地主、なにひとつ不自由なく育った彼、 監督時代のふくよかな顔つきからその生い立ちを容易に想像できる。 ![]() 高校から大学時代、 成績から見る限り水原さんが三原さんを圧倒している。 高松商業時代の水原さんは 同じ慶應に進んだ先輩宮武三郎とともに投手、三塁手として大活躍、 1925年夏、1927年夏と二度に渡り全国制覇している。 一方の三原は一度だけ甲子園に出たものの目立った活躍はなく、 香川県予選では常に水原にきりきり舞いさせられ、 ヒットはおろかバットに当てることも出来なかった。 その活躍は早慶に分かれて戦った神宮でも続いた。 水原は六大学野球随一のスター選手、 投手、3塁手として活躍、春秋通算5度の天皇盃に輝いている。 当時はプロ野球(職業野球)は下賤のスポーツ 東京六大学こそが日本のベースボールとして人気沸騰だった。 ![]() 水原さんの出る試合は常に超満員、 「水原さーーん」「がんばってー」「素敵-」、 黄色い声が神宮の杜にこだました。 三原さんは早稲田で2塁を守り3割近い打率を残すものの 人気は水原の足元にも及ばなかった。 ただ一度、三原さんは水原さんの鼻をあかせたことがあった。 1931年早慶2回戦、3塁ランナーの三原さんんは 投手水原さんの隙をつきホームスチールを敢行、 これが決勝点となって母校を勝利に導いた。 試合後、水原さんは言う、「あれはアウトだ」。 確かに写真が示す通り微妙なタイミングだった。 ![]() 二人の六大学時代にはおかしな共通点、 共に野球部を退部させられたと言うことがある。 水原は六大学史上というか、日本野球の歴史上最大の事件 「リンゴ事件」の首謀者として謹慎させられた。 ![]() 観客席からグラウンドに投げ込まれたリンゴを 3塁手の水原が早稲田側に投げ返したことを巡って 早稲田応援団が激昂、対する慶應も応戦、 球場には3,000人を超す観客が流れ込み警察出動。 ![]() 神宮球場は封鎖されるという緊迫の事態となったのである。 その後、謹慎中の水原さんは マージャン賭博に関与したとの疑いで野球部を除名させられた。 三原さんはと言えば、学生中に通った食堂に働く女性に惚れぬき 誰にも言わずに結婚した。 これが早稲田野球部生みの親、 飛田穂洲の方針「学生は結婚するべからず」に触れたことで大部のやむなきに至った。 高校から大学、成績、人気度は水原が圧倒しているが お互いがお互いを意識していたに違いない。 この関係がプロ野球、 二人が同じ巨人に入団したことでもつれにもつれていく。 続きを読む ■
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by shige_keura
| 2017-04-28 11:48
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金毘羅様には椿のカフェ
金毘羅様の階段の数は約800、 嘘800ではない。 正確に言えば本殿までが785段、 その上の奥の院まで入れると1,368段にもなる。 ![]() 最初に100段ほどの上ったところに、 これ見よがしに、あと700段の案内板、 これを見たときは正直言ってガックリとした。 そうかといってお駕籠に乗るのでは男がすたる。 というよりも、駕籠に乗る気にはならない。 何故ならば駕籠を担ぐ人が 乗る人と同じかそれ以上のお年寄りが多いのだ。 ![]() 急な階段で担ぎ手がよろけて 駕籠ごと階段から落下していくのはたまらない。 齢を自覚してゆるりゆるり、 どうやら本殿にさほどバテルこともなく到着した。 ![]() ![]() そのさき奥社は現在見学できないことを知り「しめしめ」と後戻り。 ![]() 急な階段と言うものは年寄りにとっては上りよりも下りが難儀、 暫く降りたところにあると聞いていたカフェで一休みする。 ![]() この店の名前は「神椿」、 ツバキがトレードマークの資生堂が経営しているものだが、 立ち寄る理由は喉を潤すためだけではない。 この店の壁に描かれている田窪恭治さんの 椿の壁画を見たかったからである。 田窪さんと四国は切っても切れない関係にある。 彼は1949年愛媛県の今治で生まれ、 金毘羅宮奥の院の伊藤若冲の襖絵を見たことが 芸術家を志す決定的な出来事となった。 (伊藤若冲の襖絵、奥ノ院) ![]() 彼は40歳に近づこうと言うときにとんでもない行動に出る。 それは一家でフランスのノルマンディに移住したことだ。 その目的は当地にあるサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂の修復だった。 ![]() 11年後に目出度く礼拝堂は修復し、 内部には田窪さんの描かれたリンゴの壁画が輝き、 以降、この礼拝堂は人呼んで「リンゴの教会」となった。 ![]() 田窪さんは日本に帰国後、 金毘羅宮の奥所の「椿書院」に椿の襖絵を描いた。 (田窪さんの椿の襖絵) ![]() そして資生堂が「神椿」カフェの経営に乗り出した時に 壁に椿の絵をタイルで貼りあわせた。 ![]() 白地にブルーでさらりと描いた田窪さんの椿 はカフェを益々洒落た雰囲気に押し上げている。 ![]() ![]() 果物と餡がたっぷりと入ったパフェは濃厚、 心地よい時間を過ごしたあと 残りの下り階段に爺は挑んだのだった。 ■
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by shige_keura
| 2017-04-24 21:54
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