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出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -11-
   宿命のライバル、

長々と続いた旅行記もいよいよ最後となる。

高松を訪れた私は金毘羅様、金丸座、讃岐うどん、等々
名所、名物はさておいて、
どうしても見学したいものがあった。
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それが中央公園に建つ二人の銅像、
水原茂、三原脩、共に郷土が生んだ
日本野球史に残る名選手にして名監督である。

スポーツの世界にライバル関係は良く取り沙汰されるが
水原・三原以上の宿命的ライバルは何処を探しても見つからない。

水原茂さんは1909年1月19日生まれ、
話と何ら関係ないが偶々私と同じ誕生日なのだ。
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彼は銅像から東に1.5キロにある
高松商業を経て慶應義塾大学に進んだ。

彼は幼少時に両親が離婚し
父が入り婿となったので水原姓を名乗ることとなった。

のちに水原さんはこう語っている。

「野球に熱中したのは寂しさ忘れようとしたからなのかな」。
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日本プロ野球の歴史上最高の洒落者、
ダンディ水原に憂愁の影が常に付きまとっているのは
幼少時の体験が影響しているものに違いない。

三原脩さんは1911年の生まれ、
銅像から西にわずか200メートルの所に或る
高松高校から六大学のこれまた名門の早稲田大学に進んだ。
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三原の生家は大地主、なにひとつ不自由なく育った彼、
監督時代のふくよかな顔つきからその生い立ちを容易に想像できる。
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高校から大学時代、
成績から見る限り水原さんが三原さんを圧倒している。

高松商業時代の水原さんは
同じ慶應に進んだ先輩宮武三郎とともに投手、三塁手として大活躍、
1925年夏、1927年夏と二度に渡り全国制覇している。

一方の三原は一度だけ甲子園に出たものの目立った活躍はなく、
香川県予選では常に水原にきりきり舞いさせられ、
ヒットはおろかバットに当てることも出来なかった。

その活躍は早慶に分かれて戦った神宮でも続いた。

水原は六大学野球随一のスター選手、
投手、3塁手として活躍、春秋通算5度の天皇盃に輝いている。

当時はプロ野球(職業野球)は下賤のスポーツ
東京六大学こそが日本のベースボールとして人気沸騰だった。
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水原さんの出る試合は常に超満員、
「水原さーーん」「がんばってー」「素敵-」、
黄色い声が神宮の杜にこだました。

三原さんは早稲田で2塁を守り3割近い打率を残すものの
人気は水原の足元にも及ばなかった。

ただ一度、三原さんは水原さんの鼻をあかせたことがあった。

1931年早慶2回戦、3塁ランナーの三原さんんは
投手水原さんの隙をつきホームスチールを敢行、
これが決勝点となって母校を勝利に導いた。

試合後、水原さんは言う、「あれはアウトだ」。

確かに写真が示す通り微妙なタイミングだった。
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二人の六大学時代にはおかしな共通点、
共に野球部を退部させられたと言うことがある。

水原は六大学史上というか、日本野球の歴史上最大の事件
「リンゴ事件」の首謀者として謹慎させられた。
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観客席からグラウンドに投げ込まれたリンゴを
3塁手の水原が早稲田側に投げ返したことを巡って
早稲田応援団が激昂、対する慶應も応戦、
球場には3,000人を超す観客が流れ込み警察出動。
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神宮球場は封鎖されるという緊迫の事態となったのである。

その後、謹慎中の水原さんは
マージャン賭博に関与したとの疑いで野球部を除名させられた。

三原さんはと言えば、学生中に通った食堂に働く女性に惚れぬき
誰にも言わずに結婚した。

これが早稲田野球部生みの親、
飛田穂洲の方針「学生は結婚するべからず」に触れたことで大部のやむなきに至った。

高校から大学、成績、人気度は水原が圧倒しているが
お互いがお互いを意識していたに違いない。

この関係がプロ野球、
二人が同じ巨人に入団したことでもつれにもつれていく。

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# by shige_keura | 2017-04-28 11:48 |
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -10-
 金毘羅様には椿のカフェ

金毘羅様の階段の数は約800、
嘘800ではない。

正確に言えば本殿までが785段、
その上の奥の院まで入れると1,368段にもなる。
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最初に100段ほどの上ったところに、
これ見よがしに、あと700段の案内板、
これを見たときは正直言ってガックリとした。

そうかといってお駕籠に乗るのでは男がすたる。

というよりも、駕籠に乗る気にはならない。

何故ならば駕籠を担ぐ人が
乗る人と同じかそれ以上のお年寄りが多いのだ。
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急な階段で担ぎ手がよろけて
駕籠ごと階段から落下していくのはたまらない。

齢を自覚してゆるりゆるり、
どうやら本殿にさほどバテルこともなく到着した。
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そのさき奥社は現在見学できないことを知り「しめしめ」と後戻り。
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急な階段と言うものは年寄りにとっては上りよりも下りが難儀、
暫く降りたところにあると聞いていたカフェで一休みする。
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この店の名前は「神椿」、
ツバキがトレードマークの資生堂が経営しているものだが、
立ち寄る理由は喉を潤すためだけではない。

この店の壁に描かれている田窪恭治さんの
椿の壁画を見たかったからである。

田窪さんと四国は切っても切れない関係にある。

彼は1949年愛媛県の今治で生まれ、
金毘羅宮奥の院の伊藤若冲の襖絵を見たことが
芸術家を志す決定的な出来事となった。
               (伊藤若冲の襖絵、奥ノ院)
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彼は40歳に近づこうと言うときにとんでもない行動に出る。

それは一家でフランスのノルマンディに移住したことだ。

その目的は当地にあるサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂の修復だった。
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11年後に目出度く礼拝堂は修復し、
内部には田窪さんの描かれたリンゴの壁画が輝き、
以降、この礼拝堂は人呼んで「リンゴの教会」となった。
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田窪さんは日本に帰国後、
金毘羅宮の奥所の「椿書院」に椿の襖絵を描いた。
               (田窪さんの椿の襖絵)
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そして資生堂が「神椿」カフェの経営に乗り出した時に
壁に椿の絵をタイルで貼りあわせた。
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白地にブルーでさらりと描いた田窪さんの椿
はカフェを益々洒落た雰囲気に押し上げている。
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果物と餡がたっぷりと入ったパフェは濃厚、
心地よい時間を過ごしたあと
残りの下り階段に爺は挑んだのだった。
# by shige_keura | 2017-04-24 21:54 |
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -9-
 成田屋、音羽屋、中村屋も勢揃い


讃岐と言えば金毘羅様なのだが、
長い長い石段を上る前にぜひ訪ねてみたい場所があった。

石段を登る直前、左に緩やかにカーブしている坂を上がると
目的の歌舞伎小屋が見えてきた。
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芝居小屋の名前は「金丸座」正式には「旧金毘羅大芝居」と言い、
現存する歌舞伎小屋の中で最古のものである。
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芝居小屋の歴史を辿ると、
江戸時代は三都以外では常設の芝居小屋は禁止されていた。

ただ、歌舞伎の大衆人気は高く、
それに応えるため金毘羅でも年3回(3月、6月、10月)の
金毘羅大権現のお祭りの際に上方の役者が仮設小屋で芝居を披露した。
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その後、常設を望む強い声に後押しされ
天保6年(1835年)三都以外の地で初めて
常設の芝居小屋(「金毘羅大芝居」)が金毘羅に建てられた。

明治以降芝居小屋の名前は「稲荷屋根」、「千歳屋」を経て
現在の「金丸座」となった。

そして昭和35年(1970年)、国の重要文化財として認定されたときに
正式名称を「旧金毘羅大芝居」と名付けられた。

但し、このとき、小屋は老朽化していたため
文化財としての保存を図る為移築復元計画が検討され、
昭和37年(1972年)現在の地に建てられた。

この時以来、東西の歌舞伎役者から強い出演希望が出た結果、
昭和60年(1985年)第1回「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が行われ、
以来、毎年春の風物詩として全国の歌舞伎ファンに親しまれている。
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訪れたときは春浅い3月、
芝居小屋は4月に行われる
第5代中村雀右衛門の襲名披露公演の準備前だった。

そのため、幸いして江戸の香りを残す芝居小屋の中を、
普段は見られぬ場所まで、
つぶさに見学することが出来た。
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低い入口を背をかがめ中に入ると
大相撲で見慣れた桝席が広がっている。
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役者になった気分で舞台の上から観客席を見渡す。
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この小屋では舞台の上だけではなく
観客席の上からも雪や花が散るように天井に隙間を設けている。
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更には奈落(地下)で見る花道のせりだし、廻り舞台
そして役者さんの控えの間等々興味深い小屋ツアーが続く。
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特に役者が移動する通路は狭く、階段は極めて傾斜が強く、
特に女形の役者にとっては重労働であることが理解できた。
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「金丸座」の定員は740名と地方としては立派なもの、
日本最古の舞台で演じられる歌舞伎、
一度は実際に観たいものである。
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# by shige_keura | 2017-04-22 21:20 |
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -8-
栗がないのに栗林公園

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今回の旅で訪れた島根県の足立美術館の庭園は
アメリカの専門誌でナンバーワンとして評価されている。

そして、高松の栗林(りつりん)公園も第9位に入っているばかりか
フランスのミシェランガイドで星三つを得ている美しい公園だ。
               (随一の撮影スポット、「飛来峰」からの眺望)
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ただ、その佇まいから公園と言うよりか
庭園と呼ぶ方が相応しく思われた。

明治時代の文部省の教科書によると
「栗林公園は日本の三庭園、水戸の偕楽園、金沢の兼六園、
 そして岡山の後楽園よりも美しい」と書かれていた。
               (南湖に浮かぶ楓島を望む)
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美しい公園の起源は16世紀とされているが
「栗林荘」と栗の字がついたのが延享2年(1745年)
高松藩主、松平頼恭の時代となる。
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ただ、訪れて不思議に思ったのは
栗林と名乗っているにもかかわらず
どこにも栗の木が見つからなかったことだ。
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名前の由来となった栗林は
最初の頃は確かに存在していたそうだ。
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ところが代々の藩主の鴨猟の際に
邪魔となると言うので伐採されてしまった。
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いずれにせよ公園の見どころの松の緑は誠に美しく
朝日に映えて清々しいばかり。
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これだけの庭を維持しているのが頷けるように
多くの関係者が立ち働いている。
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一心不乱に道を掃き清めていたおばさんが
ホウキの手を休めて、
見どころと道順を親切に教えてくれた。
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多くの庭師が立ち働く栗林公園、
芸術的に切り揃えた松を鑑賞、
朝の散歩を気持ちよく楽しんだ。
# by shige_keura | 2017-04-21 11:42 |
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -7-
丸亀に過ぎたるのもが・・・・・

「家康に過ぎたるものがふたつあり、
 唐の頭と本多平八」

徳川家康の世をうたった戯れ歌である。

つまり家康は秀でたものをふたつ持っていた。

ひとつが唐の頭(当時珍しかった中国到来の兜)と
名臣の本多平八郎(忠勝)という意味になる。

これを丸亀に当てはめると、
「丸亀に過ぎたるものがふたつあり、
 弦一館に扇の勾配」、とでもなるのだろうか。

11万人足らずの小都市にこのように素晴らしいものがあったのか・・・
と言ったならば丸亀の方々に失礼になるのだろうが。
               (猪熊弦一郎美術館、後ろはJR丸亀駅)
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戦国時代の城造り、そして現代アート、
新旧ふたつの素晴らしい作品は丸亀駅の目と鼻の先に並んでいる。
               (大手門より天守閣を望む)
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丸亀城は日本全国で当時の天守閣を残している
12の城のひとつである。

因みに12城は以下の通りとなる。
  
 城名    旧国名     県名

弘前城     陸奥      青森
松本城     信濃      長野
犬山城     尾張      愛知
彦根城     近江      滋賀
姫路城     播磨      兵庫
松山城     備中      岡山
松江城     出雲      島根
丸亀城     讃岐      香川
松山城     伊予      愛媛
宇和島城    伊予      愛媛
高知城     土佐      高知

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# by shige_keura | 2017-04-19 22:09 |



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
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